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私設Blog「黒曜石の図書館」

本、言葉、文化にまつわるエトセトラ。

「生きる哲学」(追記有り)

若松英輔氏を認識したのは、NHK Eテレ「100分de名著」の内村鑑三の回に出演されていたのを拝見した時。

穏やかで優しげな佇まいの中に、どこか悲しみがあるように感じた。

奥様を亡くされたことを番組の中で話されていて、納得した。

 

 「生きる哲学」の中で若松氏は、近しい人を亡くした悲しみを癒した言葉として柳宗悦の文章を挙げている。

『「悲みよ、吾れ等にふりかかりし淋しさよ、今にして私はその意味を解き得たのである。おお、悲みよ、汝がなかったなら、こうも私は妹を想わないであろう…(略)…悲みのみが悲みを慰めてくれる。淋しさのみが淋しさを癒してくれる。涙よ、尊き涙よ、吾れ御身に感謝す。吾れをして再び妹に逢わしむるものは御身の力である。」 (『柳宗悦コレクション3』)

悲しむことがなければ、自分はこれほど妹を思うことはなかった。悲しみにおいて亡くなった妹と出会っている、と柳は感じる。(略)悲しみを真に慰めるのは、悲しみを深く生きることであることを知る。悲しみは、愛と同義であるとまでいう。(略)

先の柳の言葉に出会ってから、悲しみは私の中で、まったく姿を変えた。悲しみは悲惨な経験ではなく、むしろ、人生の秘密を教えてくれる出来事のように感じられるようになった。私の悲しみを慰めたのは悲しみという言葉だった。その言葉を生き始めたとき、世界は一変した。状況が変わったのではない。私が変わったのである。(略)』(序章 生きる 言葉と出会うこと)

 

この本は「哲学」とタイトルにあるが、哲学者の解説書ではない。
哲学を志したのではない人たちの生き様を紹介し、生きていることそれ自体が哲学なのだと教えてくれる。

『本書では、本章を含む十五の章を異なる動詞においてとらえようとしている。真に「哲学」と呼ぶに値するものがあるとすれば、それは私たちが瞬間を生きるなかでまざまざと感じることにほかならないからだ。』(序章 生きる 言葉と出会うこと)

 

『人の痛みを和らげるために何の術も物も持っていない者に一体何ができようか。だが、原は見る、陰惨な出来事からけっして目をそらさない。 『古事記』が書かれた、古の日本で、「見る」とは、単に対象物を目撃することではなく、その存在の深みにふれることだった。「見る」ことは、ただ相手の姿を眺めることではなく、その魂にふれることを意味した  ………  このとき、彼らにとって「見る」とは、祈るに等しい。ここでの祈りとは、自己の願いを口にすることではない。ただ、ひたすらに苦しむ人の声を聞き、その出来事を言葉によって世界に定着させることである。祈りは、願いではない。むしろ、祈るとは、願うことを止め、何ものかのコトバを身に受けることではないだろうか。次の光景にも、無私の祈りを見る思いがする。祈りは、けっして形を定めない』(第三章 祈る 原民喜の心願)

 

 『わたしに涙をぼろぼろこぼさせたのは、パンという物ではなかった。それは、あのときこの男がわたしにしめした人間らしさだった。そして、パンを差し出しながらわたしにかけた人間らしい言葉、そして人間らしいまなざしだった……。 (『夜と霧』池田香代子訳) 同質の人々が多くいたわけではない。だが、わずかだとしても、それが朽ちることのない人格の証明であることは否定できないとフランクルは強調する。』(第十一章 伝える フランクルが問う人生の意味)

 

 あとがきで若松氏は『哲学が哲学書によってのみ示されるとは限らないのであれば、私たちは「哲学」の顕われを、もっと広汎な場所にもとめてよいはずである。哲学を研究、勉強することなくても、深遠なる哲学を有する人は世の中に多くいる。』と語る。

 

大きな悲しみを乗り越えた人に、大きさと言おうか、深み、厚み、奥行きと言えば良いのか…を感じることがある。

私自身は幸いなことに、これまで大きな悲しみは経験していない。

(近しい人との別れはあったが、大往生と言ってもよく、心の準備をする時間もあった。)

もっと近い人例えば突然、喪うことになったら、と考えることがある。

考えるだけでも、悲しい。

 

想像もつかないほどの悲しみを乗り越えられるということは、誤解を恐れずに言えば、ある意味で幸せなのかもしれない。

どんな人でも、どんな人生でも、唯一無二の哲学を生きている。

それを尊重しあいながら「生きる」ことが大切なのかもしれない。

 

✳︎追記 9/7

これを書いた翌日に気がついたが、今月の「100分de名著」も若松氏の解説だった。

この本でも取り上げられている「苦海浄土(くがいじょうど)」がテーマ。

録画しておいた月曜日の放映を再生したが、やはり「夜と霧」に引けを取らないくらい読むのが辛い章だったので、番組も軽い気持ちでは見られない。涙が落ちそうになる。

石牟礼道子氏はこの作品を「詩として書いた」と若松氏が教えてくだり、とても納得した。

次週も必見だ。

 

生きる哲学 (文春新書)